コラム「日本の新聞人」

明治初期の名コラムニスト 成島柳北(なるしま・りゅうほく)

 明治初期の新聞人。天保 8(1837)年2月16日江戸で奥儒者の家に生まれ、将軍侍講となる。文久3(1863)年狂詩を作り、時勢を風刺して職を免ぜられ、洋学を学ぶ。慶応元(1865)年武臣に転じ歩兵頭並、騎兵頭並となり、同3(1867)年外国奉行、ついで会計副総裁に就任したが、江戸開城で隠棲、以後、新政府への出仕を断り、明治5(1872)年に東本願寺法主現如上人に随行して欧米を回った。

 同7(1874)年9月『朝野新聞』(『公文通誌』改題)に局長(社長)として招かれ、他社に先駆けて論説欄を設置、さらに「雑話(雑録)」欄を設けて軽妙洒脱の筆で時事を風刺、人気を博した。翌 8(1875)年新聞紙条例、讒謗律(ざんぼうりつ)が公布されると、一流の皮肉でこれを批判、条例の厳しさに記者が辟易する様子を、蘇東坡の詩「赤壁賦」をもじって「辟易賦(へきえきのふ)」と題して掲載、さらにこの新律の制定者と言われた井上毅と尾崎三郎を故人の名を借りて揶揄し、禁獄4か月、罰金百円に処せられたが、出獄すると「ごく内ばなし」を連載、評判となり、朝野新聞の評価を上げた。

 明治17(1884)年11月30日に死去するが、その前日まで朝野紙上に雑録を書き続けた。当時その「雑録」(今でいうコラム)は、福地櫻痴の「論説」、岸田吟香の「雑報」(報道文)と並び称され、三大記者と言われている。

(上智大学名誉教授 春原昭彦)

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