コラム「日本の新聞人」

高知新聞発展の立役者 野中楠吉(のなか・くすきち)

 戦前に活躍した代表的地方新聞人。1869年(明治2年6月25日)高知城下に生まれ、青年時代は自由党高知支部員として民権運動にかかわり、97年「土陽新聞」に入社したが、土佐政友会内の中央派・郡部派の対立から郡部派に追われ、1904(明治37)年、盟友富田幸次郎らとともに退社、9月1日「高知新聞」を創刊、編集長として富田主筆とともに紙面を支えた。

 08年富田が衆議院議員に当選し、その東京の住居に支局を開設すると、上京して広告・通信など支局事務の基盤確立に尽力した。14(大正3年初代社長岡本方俊の死により、富田が2代目社長になるが、政界人として多忙を極めた(後には衆議院議長)ため、理事営業局長として社の経営を担い、1927(昭和2)年3代目社長に就任する。

 この年、夕刊を発行、ついで年々ページを増加して紙面を拡充。30年には、交通の不便な県内の遠隔地に深夜自動車で新聞輸送を開始、さらに33年に地方紙としては珍しい航空部を新設して新聞原稿や写真の空輸に使用したほか宣伝活動にも効果を上げた。37年には高知と岡山間に専用電話を設備、同時に電送写真を設備するなどその積極的な意欲は、計画・実行力と相まって高知新聞の発展を推進したといわれる。

 新聞界でもその力は徐々に認められ、同盟通信社の成立を側面から支持、発足後は同理事会の副会長を務めたほか、新聞用紙制限が始まると、地方紙の「新聞用紙対策連盟」を主導している。戦後の45年11月7日社長辞任、49(昭和24)年7月11日没。伝記『野中楠吉翁』(高知新聞社発行)には「新聞道ひとすじに生き抜き、高知新聞をその遺産とした」とある。

(上智大学名誉教授 春原昭彦)

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