コラム「日本の新聞人」

全国紙に対抗した地方紙経営者―戦前の神戸新聞で辣腕を振るう 進藤信義(しんどう・のぶよし)

 関西で活躍した戦前の特筆すべき新聞人。1878(明治11)年4月25日愛媛県川之江町に生まれ、同志社、東京専門学校などに学んだ後、「人民新聞」を経て、1900(明治33)年10月、神戸新聞の国木田北斗(独歩の弟)主筆に招かれ、経済記者として入社した。

 だが同僚との意見対立から翌年退社して華南方面実業視察団に参加、帰国後02年9月「大阪毎日新聞」に入り神戸支局長を務めた。この間、神戸新聞社主の川崎芳太郎(川崎造船所長)に認められ、09年10月国木田主筆退社後、その懇請により主幹として再入社、11年には自ら取材した軍閥の暗闘をつく「陸軍の不平党」を1月から2月にかけて“黒天”の号で43回連載(3月から4月には、さらに東條英教中将の反論、進藤の再反論を各10回掲載)、注目を浴びた。

 大正期に入ると、松方幸次郎社長を助けて経営に尽力、米騒動で焼失した社屋を再建、20(大正9)年には株式組織に変更、松方社長退任後は専務、24年からは社長として経営に当たった。特筆されるのはその積極的方針で、長崎新聞、郷里松山の海南新聞、奈良の大和新聞など各地の新聞の経営に参画したほか、昭和に入ると大阪の全国紙に対抗するため、京都日日新聞、大阪時事新報と提携、31(昭和6)年には3社を合併して「三都合同新聞社」を設立したことである。だがこの計画には 3 社の営業成績がともなわず、35年7月に挫折してしまった。

 戦争が始まるとその論説の内容や天長節の社説不掲載などもあって陸軍、官僚に嫌われ、41年8月辞任に追い込まれた。戦後は46年、大阪で「新日本新聞社」を創立したが、追放令にかかり退社、1951(昭和26)年3月11日死去した。

(上智大学名誉教授 春原昭彦)

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