コラム「日本の新聞人」

戦前の名学芸部長―戦後は反骨と毒舌の評論家に 阿部眞之助(あべ・しんのすけ)

 大正から昭和期に活躍した新聞人で政治記者、学芸記者として有名。1884(明治17)年3月29日埼玉県熊谷の在に生まれ、1908年7月東大社会学科を卒業して「満州日日新聞」(大連)に入社したが、11年帰京して8月「東京日日新聞」(毎日新聞=東京)に入り、政治部員となる。

 14(大正3)年4月の大隈内閣成立の前夜、政治部長以下部員が飲酒して内閣成立の号外が出せず部長は免職、5月「大阪毎日新聞」に転勤となった。大阪では名士の西下に際し、途中から列車に同乗して談話を取る“箱乗り”専門の記者になり、宇垣一成、加藤高明、寺内正毅らの取材で好評を博した。22年社会部長となり23年、社の洋行員規定により欧米視察旅行に出る。

 28年(昭和3)8月「東京日日新聞」整理部長に転勤、翌年政治部長になるが、30年待命休職になり他誌に文筆活動を始めた。32年8月復職、以後学芸課長、部長として菊池寛、久米正雄、横光利一、吉屋信子、大宅壮一らの社友、顧問としたほか女流作家の会を結成、将棋名人戦や囲碁本因坊戦の企画などで、学芸部の全盛時代を築きあげた。38年編集局主幹、主筆・取締役と進むが、40年の日独伊三国同盟締結に反対の態度を打ち出し、著書が軍部から憎まれ、本名での執筆は不可能となり、44年3月社を退職、顧問となった。

 戦後は評論家として活躍するかたわら種々の公職をこなし、56年にはNHK経営委員長、60年10月にNHK会長となったが、64(昭和39)年7月9日急逝した。「毎日新聞」に政治週言、土曜評論などを執筆したほか、「東京新聞」の“放射線”メンバーとして活躍、55年に菊池寛賞、56年には新聞文化賞を受賞した。反骨と毒舌の野人として有名。

(上智大学名誉教授 春原昭彦)

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