コラム「日本の新聞人」

原爆投下後の中国新聞を再建 山本實一(やまもと・じついち)

 大正から昭和にかけて「中国新聞」にあって経営の近代化に努め、日本有数の地方紙の基を築きあげた注目すべき新聞人。1890(明治23)年5月6日広島県府中町に生まれ、第六高等学校を経て東京帝大農科に学んだ。1915(大正4)年5月、中国新聞の社長山本三朗の養嗣子となり翌年 5 月、中国新聞社に入社、18年5月副社長に就任し、山本社長から新聞経営の全権を委ねられると新聞企業化の線に沿って改革をすすめた。

 当時広島には早速整爾(はやみ・せいじ)の芸備日日新聞という有力紙があって政治的にも対峙していたが、20年5月の衆議院議員選挙で両社の白熱的選挙戦が行われた直後、社長に進言して政界引退、党籍離脱を求め、その快諾を得て中国新聞は不偏不党の立場を鮮明にすることになった(一方、政党色をぬぐいえなかった芸備日日新聞は次第に勢力を失っていった)。

 以後、個人経営の会社を合名会社に変更、紙面の刷新、輪転機の増設、機構改革による局部制の導入など近代化、合理化に努め、25年には「呉新聞」を発刊(社長兼務)するなど着々と組織を固め、33(昭和8)年4月、三朗社長の逝去により社長に就任した。

 中国新聞にとって最大の危機は、45年8月6日の広島への原爆投下であっただろう。本社壊滅、社員113人が死亡という難局、さらには9月17日の枕崎台風で疎開工場での自力印刷が不可能になった時、府中町の自宅で再建会議を開き、市内の本社へ戻ることを決定、戦後復興から興隆への道を開いた。

 戦後は公職追放令により一時社を離れるが、50年10月解除により再び社長に復帰、民間放送の創設にも貢献、「ラジオ中国」の初代社長を務めた。58(昭和33)年9月17日没。

(上智大学名誉教授 春原昭彦)

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