コラム「日本の新聞人」

明治前期の大記者 福地源一郎(ふくち・げんいちろう)

 明治初期の大記者。号は櫻痴(おうち)。1841年(天保12年3月23日)長崎で生まれ、蘭学を学んだ。58(安政 5)年江戸に出て英学を学び、幕府に出仕(通弁、翻訳)、62(文久2)年初めて渡欧し、新聞への興味を持った。

 戊辰戦争が起こると68(慶応4)年閏4月、江戸で「江湖新聞」を発刊、柳河春三の「中外新聞」と並び庶民の人気を集めたが、官軍が江戸に入ると佐幕派とにらまれ、5月福地は糾問所に連行、投獄され新聞は廃刊になった。新聞人最初の筆禍受難事件と言ってよいだろう。1870(明治3)年、大蔵省御雇となり、伊藤博文に従い渡米、翌年また岩倉使節団に随行して欧米を回った。

 74年官を辞して、「東京日日新聞」(現毎日新聞=東京)に主筆(後に社長)として入社した。この時「東京日日」は社説欄を設け、以後、福地の論説は新聞界のみならず世間の注目を浴びることになり、部数は急増したという。77年西南戦争が起こると福地は自ら戦地へ出張、その記事「戦報採録」は人気を集め、4月、京都で天皇に戦況奏上の栄に浴している。

  だが自由民権運動が盛んになるにつれ、福地の漸進論は次第に支持者を失うに至り、88 年社長を辞職、以後は小説、戯曲を執筆、歌舞伎座の創立にも力を尽くした。1904年衆議院議員に当選したが、健康を害し06(明治39)年1月4日死去。

(上智大学名誉教授 春原昭彦)