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2017.09.06 update.

終戦直後、浅瀬に放置

静岡新聞社 | 2017年8月16日掲載

戦後72年 しずおか~かくて果つ 潜水艦と海没処分(4完)=海龍なお海底に?-終戦直後、浅瀬に放置
下田市にあった柿崎国民学校4年のとき玉音放送を聞いた川端元之さん(82)=同市須崎=は、直後に身の回りで起きた変化を忘れられない。軍神と仰がれ、「いつも机の上に置いて勉強しなさい」と言われた旧日本海軍の山本五十六連合艦隊司令長官のブロマイドは、担任から「すぐに焼くように」と指示された。「たった一夜で全てが真逆になった。あんな経験は人生で一度きりだ」と振り返る。
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川端さんは当時、下田港に配備されていた13隻の特攻潜水艇「海龍」についても鮮烈な記憶をとどめた。
戦時中、港に入る海龍を見ながら、「1隻、2隻…」と数えていた川端さんに対し、担任は「近くにスパイがいるかもしれない。よしなさい」と叱った。格納用の穴は、草などで偽装した鉄板で厳重に覆われていた。
しかし敗戦で、港の海龍は、沖合に海没処分されるわけでもなく、浅瀬などに数年間も放って置かれ、人々は見向きもしなくなった。朝鮮動乱で鉄が高騰したことで引き上げられ、スクラップとして売られていった。
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「本土邀撃(ようげき)特攻関係綴」(防衛省防衛研究所収蔵)によれば、伊豆半島には、海龍のほか人間魚雷「回天」、モーターボート型の特攻艇「震洋」の基地が10カ所以上もあった。「首都決戦の最前線」とされた半島全体では当時、海龍だけでも数十隻以上が戦闘配置された。
専門家は「終戦直後の連合国軍総司令部(GHQ)の監視の目は、すぐには地方に行き届かなかった。下田での海龍はその例で、伊豆の海には海龍などがまだ眠っている」と指摘する。
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伊豆周辺では熱海市の網代湾で1978年、横須賀港から回航中に空襲を受けて撃沈されたとみられる海龍1隻が引き上げられ、現在「大和ミュージアム」(広島県呉市)で展示中。
また下田港では、99年に外防波堤付近で戦後投棄されたとみられる1隻が、2015年にも戦争末期に座礁して沈没したとみられる海龍が発見された。
座礁した海龍と同じ「第15突撃隊4菊隊」に所属していた浦了さん(89)=福岡市=は「終戦のときには全員が『これで死ななくて済む』と思った。特攻戦術の愚かさを伝える歴史的価値があると思う。いつか引き揚げてほしい」と話す。
15年に海龍を発見し、今月下旬には長崎・五島沖で伊58の調査も担う下田市の海洋調査会社ウィンディーネットワークの杉本憲一社長(70)は「『実物』が訴える戦争の悲惨さや矛盾を追求したい」と抱負を述べた。
(社会部・坂本昌信が担当しました)

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■メモ
熱海市や下田市などの伊豆半島周辺で発見されている「海龍」は太平洋戦争末期に局地防衛用の潜水艇として建造された。2人乗りで全長17.3メートル、直径1.4メートル。開発時には腹部に備えたロケット魚雷2本の発射を目的にしていたが、戦局が悪化した終戦直前には、船首に600キロの爆薬を詰めて敵艦などに体当たりする本土防衛用の特攻兵器としても想定されていた。ただ、実戦は一度もなかった。搭乗員の大半は10代後半の「甲種飛行予科練習生」で、当時飛行機の不足でやむなく潜水艇に乗った。元搭乗員によれば、真珠湾攻撃に参加した特殊潜航艇「甲標的」とは「兄弟艦」とされ、海龍開発前には甲標的に乗って訓練を行っていたという。
【写説】伊豆半島に特攻基地が集中していたことを示す「本土邀撃特攻関係綴」の地図。○の中に潜水艇が描かれているのが海龍、ボートは震洋、その他は回天

静岡新聞社編集局調査部許諾済み

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VOICE!しらやなぎ 28歳 会社員 静岡県

大戦終結から72年を迎えたことし。戦争を実体験していない私にとっては、とても自国で起こったこととは思えない。他方、昨今の国際情勢を鑑みれば、平和な日常を当たり前のように享受できているのも、決して「当たり前」ではないと感じる。目に見える実物はリアリティーを持って語りかける。戦争の惨禍を忘れないためにも、できるだけ多くの目に見えるものを後世に継ぐ必要があるだろう。

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