コラム「日本の新聞人」

戦前の代表的地方新聞人―「名古屋新聞」で普選運動を展開 與良松三郎(よら・まつさぶろう)

 戦前を代表する地方新聞人。1872年(明治5年3月23日)信州小諸で生まれ、長野師範学校を卒業、93 年から長野県内で小学校教員、郡視学を務めた後、1902年ウラジオストックの日本人小学校校長に赴任する。04 年日露戦役が始まると、学校は閉鎖されたため陸軍通訳となり、7月騎兵第二旅団長閑院宮幕僚通訳として従軍した。

 2年余の従軍から帰ると、たまたま同郷の友人、小山松壽(こやま・まつじゅ)が名古屋で新聞を発行したことを知り、勧められて07年3月入社する。これが06年11月3日創刊の名古屋新聞で、以後、大島宇吉の新愛知と激しい競争を繰り広げながら、ともに日本の代表的地方紙になる。現在の中日新聞はこの両紙が戦時中の42年、統合してできたものである。

 小山は15(大正4)年の大隈内閣の総選挙に立候補、政界に入る。與良は当初「新聞の主宰者は代議士などよりも一段高く自己の地歩を標置すべき」と社説で反対を表明した。だが立ったからには当選させねばならぬと全力を注いだ。以後小山は中央の政界で活躍、衆議院議長まで務めるが、それを助けて新聞を守ったのは與良であった。

 両紙は名古屋市政をめぐって筆戦を繰り広げ、與良は市政革新に力を注ぐとともに、全国に先駆けて普選獲得運動を展開する。30(昭和5)年4月小山に代わって社長となるが、36年相談役に退き、38年10月17日没。跡取りのヱ(あいち)も戦後、中日新聞の社長となり、経営の近代化に尽くした。

(上智大学名誉教授 春原昭彦)

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