コラム「日本の新聞人」

朝日の論壇を確立した新聞人 池辺三山(いけべ・さんざん)

 本名は吉太郎。1864(元治元)年2月5日、熊本市に生まれる。父吉十郎は、1877(明治10)年「西南の役」で薩摩軍に味方して捕らえられ処刑された。

 翌1878(明治11)年から父の友人で肥後藩の儒者、国友古照軒の私塾で漢学を学んだ後、1881(明治 14)年上京して、慶応義塾などに学ぶが、学資が続かず九州に帰る。1888(明治21)年、大阪で政論雑誌『経世評論』の編集長を務めるが、経営難から翌年東京に戻り、新聞『日本』に論説を寄稿し始めた。

 1892(明治25)年に旧藩主の世子細川護成の補導役としてフランスへ行き、パリから鉄崑崙の筆名で『日本』に「巴里通信」を掲載したが、これが好評で、1895(明治28)年11月帰国すると、翌年『大阪朝日新聞』に主筆として招かれた。

  三山が真価を発揮するのはこれ以後で、1898(明治31)年には『東京朝日』に転じ、藩閥主導の超然内閣を批判、日露問題では対外強硬論を主張した。その言論は各界から注目されただけでなく、文章、論旨、テーマの選択など近代的社説の型を打ち出したことでも注目される。

 また、二葉亭四迷を再評価して起用、夏目漱石の入社に力を貸して『朝日新聞』の権威を高めた。1911(明治44)年9月に退社、翌年2月28日死去した。

(上智大学名誉教授 春原昭彦)