コラム「日本の新聞人」

近代的通信社創設の立役者 岩永裕吉(いわなが・ゆうきち)

 1883(明治16)年9月13日、長與専斎の四男として東京で生まれたが、1890(明治 23)年母方の叔父・岩永家の養子となる。

 1909(明治 42)年京都帝国大学法科を卒業して、1911(明治 44)年満鉄(南満州鉄道株式会社)に入社、長春駅長などを務める。

 1917(大正 6)年退社して鉄道院総裁(後藤新平)秘書官に就任したが、翌 1918(大正 7)年退官して欧米を回り、帰朝後の 1920(大正9)年4月から外国事情の紹介誌『岩永通信』の発行を始めた。

 翌1921(大正10)年『国際通信社』の樺山愛輔社長に請われて取締役として入社、関東大震災で『世界の批判』(『岩永通信』改題)を廃刊してからは、専務取締役として『国際』の業務を主宰することになった。

 1926(大正 15)年 2 月に『国際通信社』と『東方通信社』を合併、新聞社の共同機関としての『日本新聞聯合社』を創立、ナショナル・ニュース・エージェンシー設立の構想実現に着手する。以後、米国の AP、英国のロイターと対等の通信契約を結ぶのに成功、日本の通信独立に大きく貢献、1936(昭和 11)年には、当時の二大通信社『聯合』と『日本電報通信社』を合併して、名実ともに日本を代表する通信社『同盟通信社』を作り上げたが、1939(昭和 14)年 9月2日、57歳で死去した。

(上智大学名誉教授 春原昭彦)