コラム「日本の新聞人」

朝日新聞社の創設、発展の功労者 上野理一(うえの・りいち)

 1848(嘉永元)年10月3日、丹波篠山西町(兵庫県)に生まれた。家は代々両替商、質屋を営んでいたが、明治に入って家運が傾いたので、1872(明治5)年神戸に出て外国貿易を志したが成功せず、1875(明治8)年に遠縁の細見貞の紹介で、大阪鎮台三好重臣司令官の執事となる。

 1880(明治13)年4月三好中将の東京転任により辞職、兵庫県川辺郡の上席書記となった。当時『朝日新聞』は、資本主の木村平八と津田貞主幹の対立から経営が困難になっていた。そこで経営に参画していた細見貞の説得で、10月 5 日『朝日新聞』に入社、翌1881(明治14)年1月木村平八が『朝日新聞』の所有権すべてを村山龍平に譲渡すると、上野も経営に参画することになり、出資金総額のうち3分の2を村山、3分の1を上野が分担した。1908(明治41)年、大阪、東京両社を合併、合資組織としてからは、村山と1年交替で社長を務め、日本を代表する新聞に育て上げた。

  両者の性格は剛と柔、村山が外を代表すれば上野は内をまとめるという具合で、とくに1918(大正7)年の「白虹筆禍事件※」の時は、村山に代わって社長になった上野が収拾にあたり、『朝日』存亡の危機を乗り切ったと言われる。翌1919(大正8)年12月31日に死去。

※寺内内閣による言論弾圧を批判する記事の中の「白虹日を貫けり」の一句が政府を激怒させた、日本新聞史上最大の筆禍事件。

(上智大学名誉教授 春原昭彦)