コラム「日本の新聞人」

戦前、朝日新聞の筆勢を主宰した新聞人 緒方竹虎(おがた・たけとら)

 1888(明治21)年1月30日、山形市に生まれ、福岡で育つ。1911年早稲田大学専門部を卒業して『大阪朝日新聞』に入り、東京の大阪通信部に勤務する。以後、論説班、英国留学、ワシントン海軍軍縮会議特派などを経て、1923(大正12)年『東京朝日新聞』に移り、整理部長、政治部長の後、1925年編集局長となった。

 昭和に入ると取締役として経営に参画、石井光次郎、美土路昌一とともに、編集、営業の基礎を固めるとともに自ら『朝日』の筆勢を主宰した。1936(昭和11)年の二・二六事件の時には、陸軍青年将校の朝日襲撃に際し、単身反乱軍と対決した話は有名である。1943年副社長となったが、翌年小磯内閣の国務相兼情報局総裁に就任、退社した。1945年4月内閣総辞職で退官したが、8月東久邇宮内閣成立で再び国務相兼内閣書記官長兼情報局総裁となり、終戦時の混乱収拾に力を尽くした。

 戦後は戦犯容疑者に指名され、公職追放となったが、解除後は政界に復帰、1952年衆議院議員に当選、第4次吉田内閣の国務大臣兼内閣官房長官に就任、以後、副総理、自由党の領袖として活躍した。

 1954 年吉田茂に代わって自由党総裁になるが、1955年の総選挙に敗れ、保守合同に尽力、11月自由民主党を結成して、総裁代行に就いたが、翌1956(昭和31)年1月28日急逝した。

(上智大学名誉教授 春原昭彦)