軍部の暴走を戒めた気骨ある言論人 菊竹六皷(きくたけ・ろっこ)
大正から昭和初期に活躍した言論人で、軍部の台頭期にその暴走を戒め、議会主義の擁護を説いた勇気ある新聞人として知られる。
1880(明治13)年1月25日、福岡県浮羽郡吉井町で生まれた。本名は淳(すなお)。幼時、左脚に打撲傷を受け、一生左脚障害となった。1903年東京専門学校(現早稲田大学)を卒業して、福岡日日新聞(現西日本新聞)に入ったが、1911年、征矢野(そやの)半弥社長の抜てきにより編集長に就任、社内革新に功を挙げ、1926(大正15)年に主幹、1928(昭和3)年編集局長になった。終始、論説を主宰し、とくに女権擁護論、公娼廃止論、試験制度全廃論などを展開したことで知られる。1932年に五・一五事件が起こると、社説「敢て国民の覚悟を促す」など7編の反軍論説を紙上に掲載、政党政治、議会主義擁護の論陣を張ったため、陸軍から抗議や脅迫を受けたが、阿部暢太郎編集長ら幹部とともに敢然として軍の干渉に立ち向かったのは有名。
1935年8月、副社長に就任したが、以前から結核により健康を害していたため、翌年から入退院を繰り返し、1937年7月21日に死去した。
2000年、世界新聞協会(WAN)が「歴史を作った報道人」を世界から選んだとき、その一人として日本から選ばれている。
(上智大学名誉教授 春原昭彦)