戦前、軍部批判を続けた抵抗の新聞人 桐生悠々(きりゅう・ゆうゆう)
日本では数少ない抵抗の新聞人として知られる。1873(明治 6)年5月20日、金沢市に生まれ、本名は政次(まさじ)。
はじめ小説家を志し、同級の徳田秋声と二人で尾崎紅葉を訪ねたが断られ、1899年東京帝国大学を卒業。翌年東京府属官となるがすぐ辞職し、博文館を経て、宇都宮の下野新聞主筆となった。
1903 年大阪毎日新聞学芸部に入るが、1907年大阪朝日新聞に移り、東京の大阪通信部に勤務する。1910年信濃毎日新聞主筆として長野へ赴任、活発な評論活動を展開した。1911年に大逆事件の判決を批、1912(大正元)年9 月の乃木将軍殉死に際しては、社説「陋(ろう)習打破論」でその死を批判したため読者の強い非難を受け、小坂順造社長が自ら翌日「乃木大将の死を論ず」を掲載「僕はその論に同じかねる」と述べて事態を収めている。
1914 年「信濃毎日」を退社して「新愛知」の主筆となり「名古屋新聞」と論戦を交わした。
1924年退社、1928(昭和3)年再び信濃毎日新聞に主筆として招かれるが、1933年に社説「関東防空大演習を嗤(わらふ)※」を書いて軍部の攻撃を受け、退社を余儀なくされた。
以後は名古屋郊外に移り、個人雑誌「他山の石」を発行して欧米の新知識を紹介するとともに時勢を批判し続け、1941年9月10日、喉頭ガンで死ぬまで時の政府に対する抵抗を止めなかった。
※当時首都圏で行われた防空大演習を「敵機を帝都の空に迎え撃つのではなく、領土に入らしめないのが防空戦の第一義」と批判したもの。
(上智大学名誉教授 春原昭彦)