コラム「日本の新聞人」

“大衆新聞”の生みの親 黒岩涙香(くろいわ・るいこう)

 明治・大正期を代表する新聞人で、本名は周六。文久 2(1862)年9月28日高知県安芸市で生まれた。高知、大阪で漢籍、英語を学んだ後、上京。明治14(1881)年ごろから東京與論雑誌、同盟改進新聞、日本たいむすなどに時事論文を発表、19 年に絵入自由新聞に入社、主筆となった。

 20年代に入ると翻訳(案)探偵小説を連載して名声をあげ、22年に都新聞に移るが、25年に萬朝報を創刊して、本格的な大衆新 聞を作り上げた。「簡単な記事、平易で通俗な文章」を売り物に、弱者に味方し、強きをくじくキャンペーンなどで、たちまち読者の人気を集め、部数は増大した。30年代に入ると、優秀な記者を集め、特に日露開戦前夜には、内村鑑三、幸徳秋水、堺枯川らが非戦論を展開したことで有名。

 大正に入ると憲政擁護運動に続く山本権兵衛内閣打倒にまい進、大隈重信内閣を成立させるが、これが黒岩の絶頂期で、大隈内閣の人気が落ちると萬朝報も衰退に向かった。7年からベルサイユ講和会議のために渡欧したが、健康を害し、大正9(1920)年10月6日死去した。

(上智大学名誉教授 春原昭彦)