コラム「日本の新聞人」

明治前期に活躍、言論統制とのせめぎ合い 末廣鉄腸(すえひろ・てっちょう)

 明治前期に活躍した新聞言論人。本名は重恭(しげやす)。嘉永 2(1849)年2月21日愛媛県宇和島で生まれ、明治7(1874)年上京して大蔵省に出仕する。

 翌8年4月、曙新聞の社主青江秀に招かれ、編集長として入社したが、6月に公布された讒謗律(ざんぼうりつ、最初の名誉毀損法)、新聞紙条例を紙上で攻撃したため、条例批判の科で禁獄2か月、罰金20円の判決を受けた。これが新律最初の犠牲者だったが、かえって人々の同情を集め、末廣の人気は高まったという。

 だが禁固中に青江が政府との妥協をはかったため曙新聞を退社、10 月に成島柳北の朝野新聞に編集長として迎えられた。翌年2月、またも条例の制定者井上毅(こわし)、尾崎三良を攻撃する論説(投書)を掲載したとして、成島とともに投獄された。

 14年自由党の結成に参加したが、板垣退助の外遊費問題などで脱退、欧米漫遊後の22年に朝野新聞を退社、以後は東京公論、関西日報、大同新聞、国会などの主筆を務めた。第一回衆議院議員選挙で当選 したほか、「雪中梅」、「花間鴬」などの政治小説でも有名。明治29(1896)年2月5日死去。

(上智大学名誉教授 春原昭彦)