コラム「日本の新聞人」

日本における国際記者の草分け 高石真五郎(たかいし・しんごろう)

 日本における国際記者の草分け。明治11(1878)年9月22日千葉県市原郡鶴舞町で生まれ、34 年慶応義塾大学部を卒業して、大阪毎日新聞小松原英太郎編集総理の論説秘書となる。翌年三井家の援助で英国へ留学したが、日露戦争後のロシア一番乗りの社命を受け、38 年暮ペテルスブルクに入り、国会創設を東洋人記者としてただ一人取材、さらにトルストイを訪問した。

 40 年にオランダのハーグで開かれた第2回万国平和会議では、韓国の密使事件というアジアを揺るがす大スクープを報じた。42年渡米実業団大阪代表として米国へ出張、翌年帰国後は外国通信 部長として海外取材体制の確立に努めた。

 大正7(1918)年のパリ講和会議では取材、通信の指揮監督にあたり11年に大毎主筆、英文毎日を創刊して主筆を兼務、以後筆政 を主宰するとともに、毎日新聞の経営につくし、戦後の昭和 20(1945)年9月社長となるが11月辞任した。

 国際人としては日米開戦前、国民使節として渡米、全米放送、演説会などを通じて親善関係の回復に努めたほか、IOC(国際オリンピック委員会)委員として東京五輪、さらに札幌の冬季五輪招致に尽くした功績は大きい。昭和 42(1967)年2月25日死去。

(上智大学名誉教授 春原昭彦)