朝日の社風形成に貢献 鳥居素川(とりい・そせん)
明治の後半から大正期にかけて活躍した新聞人で、本名は赫雄(てるお)。慶応3年7月4日(1867年)熊本で生まれ、済済黌、独逸協会学校に学んだ後、上海に渡り日清貿易研究所に入るが病で帰国、明治23(1890)年陸羯南(くが・かつなん)の新聞『日本』に入社し、日清戦争に従軍、その通信で注目された。
30(1897)年大阪朝日新聞社に入社、日露戦争に従軍、44(1911)年には英国皇帝の戴冠式に参列、さらに夏目漱石の朝日招へいに力を尽くすなど記者として数々の業績を上げたが、特筆すべきは、西村天囚、池辺三山とともに論説陣の中心として、朝日社風の形成に大きな影響を及ぼしたことである。
鳥居は「人に屈せず一毫の不正を許さず皮肉な風刺比喩に巧み」であったというが、藩閥政府と激しく対立、38(1905)年9月には日露講和批判で桂内閣を攻撃、大正に入ると7(1918)年のシベリア出兵、米騒動で寺内内閣を厳しく批判、その結果「白虹日を貫く」の筆禍事件により、退社を余儀なくされた。
当時、関西には素川の信奉者が多く、その支援により翌 8(1919)年『大正日日新聞』を創刊したが、経営面に人を得ず1年で解散、以後ドイツ、中国に遊ぶが、昭和3(1928)年3月10日に死去した。
(上智大学名誉教授 春原昭彦)