コラム「日本の新聞人」

明治、大正、昭和を見つめ続けた言論人 長谷川如是閑(はせがわ・にょぜかん)

 近代日本を代表する言論人。明治8(1875)年11月30日、東京深川に生まれた生粋の江戸っ子で本名は萬次郎。

 同31年東京法学院(中央大学の前身)を卒業、35年新聞への投書が縁で『日本』へ入社したが、39 年陸羯南から伊藤欽亮に経営が移ったのを期に、三宅雪嶺らと同盟退社、一時雑誌『日本人(すぐ『日本及日本人』と改題)』に入るが、41年鳥居素川の勧めで大阪朝日新聞入社、外報、通信の仕事を手伝う。43 年ロンドンの日英博覧会に特派され、エドワード七世の崩御にあう。

 大正に入ると社会課長、論説担当となり、大阪朝日社会部の基礎を築いたが、大正7(1918)年8月の「白虹筆禍事件」の責任をとり、鳥居ら幹部とともに退社、以後は一度も禄を食まず、フリーランスの記者として一生を通した。

  翌8年大山郁夫ら同人とともに雑誌『我等』を創刊(昭和5(1930)年『批判』と改題、9年廃刊)、昭和7年に出した「日本ファシズム批判」は発禁になったが、その後も旺盛な評論活動を続けた。

  ドイツ観念論を空理空論と排し、英米の実学の立場を支持するその独特な文明論は、戦前、戦後を通じ多くの影響を与えた。23 年文化勲章受章、昭和44(1969)年11月11日死去。

(上智大学名誉教授 春原昭彦)