コラム「日本の新聞人」

日本の全国紙設立、発展の功労者 村山龍平(むらやま・りょうへい)

 明治、大正、戦前昭和を代表する新聞経営者。1850年(嘉永3)年4月3日、伊勢田丸(三重県玉城町)に生まれた。71(明治 4)年大阪に移住し、西洋雑貨商を営んでいたが、同業の友人木村平八・騰(のぼる)の親子が新聞の発行を企てたとき相談に預かり、79(明治12)年1月、朝日新聞創刊に際して社主(社長)の名義を引き受けた。

 だが、経営難から木村は村山に新聞を譲渡。村山は81年から上野理一と共同して全面的に経営に当たることになった。以後、88年には東京に進出、大正期には地方版を拡充して全国紙への道を開いたほか、文化、教育などの事業活動を推進するなど独特の才能と積極策により、日本を代表する朝日新聞の地位と名声を築き上げた。

 90 年の議会開設前後には、東京公論、大阪公論、国会などの政治新聞を発行、自らも衆議院議員に3度当選するなど政治にも関心を寄せた。しかし94年の第4回選挙には立候補を断念、以後は一人一業、新聞だけに徹し、政府の委員会にも入らなかった。また日本の航空事業の発展に貢献したほか、美術工芸にも深い関心を寄せ、世界的に有名な美術雑誌「国華」を私財を投じて支援してきた功績は大きい。1933(昭和8)年11月24日没。

  現在、神戸市東灘区御影町の旧邸には、その重文級収集美術品を展示した「香雪美術館」(香雪は村山の号)、生地の玉城町には「村山龍平記念館」がある。

(上智大学名誉教授 春原昭彦)