コラム「日本の新聞人」

毎日新聞興隆の基を築いた経営者―「新聞商品主義」唱える 本山彦一(もとやま・ひこいち)

 明治から昭和初期に活躍した日本を代表する新聞経営者。1853年(嘉永6年8月10日)熊本に生まれ、藩校時習館で漢籍を学んだ。71(明治4)年上京して箕作秋坪(みつくり・しゅうへい)の三叉学舎で洋学を学び、また福沢諭吉の知遇を得た。79 年兵庫県に出仕、勧業学務課長、神戸師範学校長を務めたが 81 年退官、82年大阪新報を経て、83年時事新報社に入り、総編集、会計課長を務める。86 年大阪の藤田組に入り、山陽鉄道の設立に当たるとともに児島湾開墾事業に力を尽くした。

 89 年から大阪毎日新聞の相談役となってその経営に関与、98年原敬が社長になると、業務担当社員となり、両者分担して社務に当たった。1903(明治36)年社長になるが、毎日新聞社の発展はこの本山時代に築かれたものと言ってよい。06 年には東京進出を図り、毎日電報を発刊、さらに 11年、東京初の日刊紙東京日日新聞を譲り受けて毎日電報を合併、以後朝日新聞とならび日本を代表する全国紙を築き上げた。

 本山は、営利が卑しめられていた新聞界でいち早く「新聞商品主義」を唱え、その独立を保障する基盤の重要性を説き、21(大正10)年には臨時国語調査会委員として持論の漢字制限を提議するなどその先見性は高く評価される。22 年にはサンデー毎日、英文毎日、世界に誇る点字毎日を発行したほか、富民協会の設立など社会文化事業にも大きく貢献している。1932(昭和7)年12月30日没

(上智大学名誉教授 春原昭彦)