コラム「日本の新聞人」

広告業の育ての親 光永星郎(みつなが・ほしお)

 明治後期から戦前昭和期に活躍した通信・広告業界の先駆者。慶応 2(1866)年 7 月 26 日、熊本県八代郡野津村に生まれ、徳富一敬(蘇峰の父)の共立学舎に学ぶ。その後、自由民権運動などに加わり保安条例で帝都追放になったが、1889(明治22)年秋、大阪公論記者、公論廃刊後は大阪朝日新聞九州通信員となる。国会開設後、再び自由党院外団などで政治活動を行うが、94 年、渡韓中に日清戦争が起こると従軍して、めさまし新聞、福岡日日新聞(現西日本新聞)に記事を送った。

 この時の通信問題への関心から、通信社経営とそれを支える新聞社への広告の供給を思い付き、1901(明治 34)年 7 月 1 日、日本広告株式会社を創立、通信のために電報通信社を併設した。日露戦争を経て 06 年 12 月、電報通信社を改組、日本電報通信社を創立、翌 07 年 8月1日、両社を合体して株式会社日本電報通信社が出現した。この年 5月、米国のUP通信社と通信提携したが、これが電通通信部の発展に大きく寄与することになり、以後、広告・通信とも電通の発展は目覚しかった。

 だが36(昭和11)年6月、国の統制政策により電通通信部は聯合通信部との合併を強制されて同盟通信社となり、日本電報通信社は広告専門会社として新発足する。以後戦時下の広告界は苦難の道を歩むが、光永は戦後の繁栄を見ることなく、1945(昭和 20)年 2月20日死去した。

  その生涯は話題にも富み、「心身の健全、不屈の努力、業務への誠実」を意味する「健・根・信」を信条に掲げたほか、毎年寒になると白衣の社員が広告主や新聞社を回って寒中見舞いをする「寒行」、さらに夏には社員の富士登山競争を行い、山頂から得意先に暑中見舞いを送るなど独特のアイデアで、顧客に感謝の意を表し話題を提供した。

(上智大学名誉教授 春原昭彦)