コラム「日本の新聞人」

戦前有数の地方紙経営者―河北新報を創刊 一力健治郎(いちりき・けんじろう)

 明治から大正、昭和初期に活躍、戦前屈指の地方紙を築き上げた新聞経営者。文久3(1863)年9月25日仙台で生まれ、東華学校、第二高等中学校などに学んだ後、植林会社の社長や仙台市議会、宮城県議会議員を勤めたが、藤沢幾之輔県会議長の勧めで、廃刊寸前の改進党機関紙「東北日報」を譲り受け、1897(明治30)年1月17日「河北新報」を創刊した。

 新聞の発行に当たっては「藩閥政治によって無視されてきた東北の産業・文化の開発に尽くすことだ」と不偏不党を宣言、自ら議員などいっさいの役職を辞して新聞に力を注いだ。その経営戦術は独特なもので、99年6月から地方紙初の英文欄を設け、文芸、家庭欄を充実、1900(明治33)年1月9日からは「社会は活動して1日も休止することなし」と年中無休刊を宣言、生涯実行した。人気投票や福引、種々の催しものなどに力を入れて読者を獲得したほか、広告を重視し、とくに中央の広告主を大事にした。

 社員に対してはワンマンだったが、人情味に厚く「時間励行訓」を編集局員に配布し“新聞即時間”をモットーに、時計の購入に半額補助したり、出勤の遅い社員には迎えに行ったなど逸話に事欠かない。

  死の前年、叙位叙勲の話があったが、河北新報は社会公益の機関で産業文化に何か見るべきものがあったとすればそれは全東北人の覚醒と団結によるもので一個人の努力ではないと、辞退したという。1929(昭和4)年11月4日死去

(上智大学名誉教授 春原昭彦)