コラム「日本の新聞人」

秋田魁新報の発展に尽くした新聞人 安藤和風(あんどう・はるかぜ)

 戦前の地方紙を代表する新聞人。慶応2(1866)年正月12日、秋田市で生まれた。1882(明治15)年8月秋田日日新聞に入社、11月に秋田日報に移るが、翌年「仮編集人」の名義人となったため、社外寄稿掲載の責任を問われ、官吏侮辱罪で84年3月入牢、この間に秋田日報は解散してしまった。

 以後、東京に遊学、私立東京商業学校を卒業して、92年秋田に帰り、県や市、郡の書記、第四十八国立銀行、御法川商店などを経て、98年秋田新報社(秋田魁新報発行)に入るが、翌年、再び上京して御法川商店の支配人を1年間勤めた後、1900(明治33)年9月秋田魁新報に記者として再入社する。このとき34歳だったが、それまでの経験が後の新聞経営に役立つことになる。

 1901年、主筆になるが、新聞社の経営持続には資本の固定化が必要と自ら県内の有力者を回って出資を求め、02年に資本金3万円の匿名組合を組織、翌年1月からは年中無休刊を発表するなど着々と発展の礎石を築いていった。

 以後、政治活動に多忙な井上広居社長を助け、23(大正12)年1月株式組織に変更、代表取締役、28(昭和3)年11月からは社長として36(昭和11)年12月26日に亡くなるまで秋田魁新報社の発展に尽くした。その功績は一地方新聞人たるにとどまらず、日本新聞界の先覚者として、68年東京千鳥ヶ渕公園の記念碑「自由の群像」にその名が刻まれ表彰された。また俳人、蔵書家としても全国的に知られる秋田の文化人で、和風の通称「わふう」は、俳号でもある。

(上智大学名誉教授 春原昭彦)