毎日新聞を率いた大記者、名経営者 奥村信太郎(おくむら・しんたろう)
明治後期から戦前昭和期に活躍した新聞人。1875(明治8)年11月3日、東京品川に生まれ、慶応義塾大学部を卒業、1901(明治34)年4月、大阪毎日新聞社に入社、内国通信記者として、外国通信の高石真五郎とともに毎日新聞の発展に尽くした。
04年、日露戦争の従軍記者として鴨緑江渡河戦、九連城攻撃、遼陽攻撃戦などを特報、さらに各地の紀行文などで注目を浴び、06年に大阪毎日が主催した鉄道五千哩(マイル)競争では、西方の選手(東方は松内則信)として、全国の鉄道を37日間かけて乗り通し、その旅行記が好評を博した。07年には第1回海外派遣記者として欧米を回り、翌年 6 月までその道中記で紙面を飾っている。
明治の末に内国通信部長から社会部長になり、14(大正3)年の青島攻略戦では初めて写真記者の従軍を発案、写真画報、写真号外などにも力を入れたほか、15年の夕刊発行、大正天皇御大典報道の総指揮をとった。スポーツにも関心を寄せ、大毎野球団を率いて中国大陸に渡ったり、米国遠征の団長、ワールドシリーズの記事を掲載したりしている。
また催しものや社告の文案にも長じ、24年元日の紙面に載った「初めて百万部突破」の社告は彼の執筆である。26年取締役となり経営にも携わるようになるが、33(昭和8)年、城戸事件(本山彦一社長の後継者をめぐる騒動)後、専務取締役、36年12月には社長となり戦時下の毎日新聞を支えた。
45年8月15日、敗戦を迎えると20日に単独で辞表を提出して社長を辞任、公職追放中の51(昭和26)年3月4日に死去した。75年に刊行された伝記『奥村信太郎』には「新聞一筋無冠の大記者」とある。号は不染。
(上智大学名誉教授 春原昭彦)