中京新聞界の祖―「新愛知」を最有力地方紙に 大島宇吉(おおしま・うきち)
戦前の地方紙界を代表する新聞経営者。1852年(嘉永5年3月6日)名古屋市外守山町小幡の地主の家に生まれ、若いころは自由民権運動に参加、自由党の闘士として活躍した。
86(明治19)年3月同志とともに無題号・不定期刊の新聞を発行、翌年8月1日(『大島宇吉翁傳』による)には日刊化して「愛知絵入新聞」を創刊したが、度重なる官憲の弾圧で廃刊、88(明治21)年7月5日「本紙と同主義の通俗日刊絵入新聞」として「新愛知」を創刊した。
当初は経営組織も自由党員の同志的結合だったが90(明治23)年、第1回衆議院議員選挙に落選してからは、再び政治の表面には立たずと決心、12月27日社長に就任、「新愛知」の経営に専念することになった。当初、紙面の改善は小室屈山主筆に託し、自身は各地を回り販売網の拡大に乗り出し、東海・北陸から上信越、西は関西まで各地に支局・通信部を設けるとともに付録、独立併読紙を出して読者を作り中部日本に不動の地盤を築き上げていった。
広告についても明治30年代に入るころから紙幅を拡張して、広告収入の増大を図り、自ら東京、大阪に出張して代理店、広告主を歴訪するなど努力を傾注、昭和に入るころは東京・大阪の中央紙に次ぐ地方最有力紙に「新愛知」を育て、震災後、経営不振に陥っていた東京の名門紙「国民新聞」までその傘下に収めた。
農村に育ち終生、農産業の振興に貢献したほか、航空事業の発展普及に果たした功績も見逃せない。生涯、豊川稲荷を信奉し、新愛知の発展を祈願したというのは有名な逸話である。1940(昭和15)年12月31日没。なお「新愛知」はその2年後、新聞統合でこれも地元の有力紙「名古屋新聞」と合併、現在の「中日新聞」となっている。
(上智大学名誉教授 春原昭彦)