コラム「日本の新聞人」

戦前の代表的政治記者 野村秀雄(のむら・ひでお)

 戦前に活躍した代表的政治記者。1888(明治21)年1月8日広島県三次市に生まれ、1911(明治44)年早稲田大学専門部を卒業、翌年、中央新聞に入り政治記者となる。17(大正6)年には国民新聞、20 年東京朝日新聞に移るが、ほぼ一貫して政友会担当の政治記者として活躍した。

 ちょうど時代は政党の興隆期、政論記者から取材記者への政治記者の改革期でもあった。閣議の報告の後、閣僚を歴訪して詳細な記事を書く、記者の夜討ち朝駆けは野村の創案と言われている。一方「書いてはいけないと言ったとき、断じて書かないのは野村だ」と言われ、多くの人から信用を得ていた。

 26年政治部長となり、36年6月まで務める。その間、27(昭和2)年にジュネーブの日英米三国海軍軍縮会議取材のため欧州に派遣されたほか、29年から32年にかけて一時外勤に出たが、一貫して東京朝日政治部の基礎を固めた。以後、編集局次長、40年8月から42年6月まで編集局長、43年5月から約1年ジャワ新聞社長などを務め、敗戦を迎えた。戦後、社内が幹部の戦争責任問題で混乱した時、代表取締役となって事態の収拾を図り翌46年4月退任、社を離れた。

 48年11月、熊本日日新聞社長になるが、これは友人伊豆富人の公職追放中の頼みによるもので、51年伊豆が追放解除になるとすぐ退任して、伊豆が社長に復職した。このような野村の友情に厚い逸話には事欠かない。

  その後、電波管理審議会会長、法制審議会委員、国家公安委員などを務め、58年1月には日本放送協会(NHK)会長に就任する(~60年10月)。このとき野村が行ったのが暴力番組の追放で、彼が果たした功績は大きい。63年10月、新聞文化賞を受賞、64(昭和39)年6月20日没。

(上智大学名誉教授 春原昭彦)