朝日の隆盛と航空事業の発展に貢献 美土路昌一(みどろ・ますいち)
大正から昭和期に活躍した代表的新聞人。1886(明治19)年7月16日岡山県苫田郡一宮村(現・津山市)に生まれ、1907(明治40)年早稲田大学を卒業、翌年1月「東京朝日新聞」に入った。ちょうど新聞社の組織・機能が整いつつある時期、14(大正3)年の第1次世界大戦には青島攻囲軍に社会部から初めて従軍するなど、社会部の活動範囲を拡大して活躍した。
以後、上海・ニューヨークなどの特派員を経て、21 年通信部長、23年9月の関東大震災の際は一時、社会部長を兼務して震災報道の指揮にあたった。10月整理部長となり、総合編集や紙面浄化に力を注ぐ。昭和に入ると30(昭和5)年編集総務、34年編集局長、35年取締役となり、緒方竹虎との名コンビで朝日新聞の隆盛に力を尽くした。
その間、軍や右翼団体の嫌がらせ、記事の差し止め、言論取り締まり法規などに苦労したようで、その編著「明治大正史・言論編」(30年、朝日新聞社刊)は、自らの体験に基づく言論弾圧史の名著と言われる。
45年4月15日に取締役を辞任し、顧問となったが、戦後の64年、資本と経営の分離をめぐって朝日新聞社内が混乱した時、請われて社長に就任、融和に尽力し、67年辞任、73(昭和48)年5月11日に死去した。
一つ特記すべきは航空事業に対する貢献である。朝日新聞社は早くから飛行事業に関心を持っていたが、21(大正10)年、計画部(のち、航空部)次長を兼務してからその航空事業を推進した。戦後は、職を失った航空関係者の生活を援助、その縁で航空事業が復活した時、いち早く民間の日本ヘリコプター輸送株式会社(現・全日空)を創立、社長に就任した。その功績は見逃せない。
(上智大学名誉教授 春原昭彦)