コラム「日本の新聞人」

読売新聞を支えた「販売の神様」 務臺光雄(むたい・みつお)

 昭和期を代表する新聞経営者。1896(明治29)年6月6日、長野県松本に生まれ、1918(大正7)年7月、早稲田大学専門部政治経済科を卒業して富士紡、郡山紡績に勤めた。23年2月、当時東京第一の発行部数を誇る「報知新聞」に入り、新聞販売の現場で経験を積み、24~25年には販売事情視察に欧米を回ったが、28(昭和3)年「報知」社内の幹部交代により退社した。

 翌29年8月、正力松太郎社長の招きで読売新聞社に入り、販売網の確立に力を注ぎ、32年販売部長となり、正力を助けて読売新聞の興隆に貢献する。関東大震災後、東京の新聞社が疲弊し、大阪系の「朝日」「毎日」両紙が勢力を伸ばしてゆく中、「読売」は、唯一両紙に対抗して部数を伸ばし、戦前すでに関東第一の新聞に成長した。

 戦時中の新聞統制時代には「報知新聞」「ビルマ新聞」に出向、戦後は新聞界の共同機関「日本新聞連盟」に理事長として出向、一時社を離れた。その間、社内は争議や紙面の偏向批判などもあり経営が混乱したが、50年2月に取締役復帰、翌年1月からは馬場恒吾社長に代わり安田庄司(副社長)・務臺光雄(営業)体制で経営に当たり、安田亡きあとも実質経営者としてその後の発展に力を注いだ。

 52年には大阪、64年に北九州、75年には名古屋発行を成し遂げ、読売新聞を名実ともに全国紙に成長させた。70年空席だった社長就任、81年会長、83年に名誉会長となる。

 “販売の神様”と言われながら、「編集第一主義」を唱え、その新聞界の発展に寄与した功績により、1980 年に新聞文化賞を受賞した。1991(平成3)年4月30日没。

(上智大学名誉教授 春原昭彦)