コラム「日本の新聞人」

明治~昭和を駆け抜けた島根の新聞人 伊達源一郎(だて・げんいちろう)

 明治から昭和にかけて活躍した島根県が生んだ代表的新聞人。1874(明治7)年3月15日、能義郡井尻村(現伯太町)に生まれ、同志社に学び99年政治科を卒業、翌年、徳富蘇峰の国民新聞に入り外報記者となった。1906年、蘇峰とともに中国を視察、10年には欧米を回って新聞に関する知識を深め、帰国後の12年編集局長となり部員を統率してスクープや号外、企画などに目覚ましい成果を挙げた。

 だが第一次大戦勃発後、朝鮮問題で蘇峰と意見を異にして15(大正4)年に社を去り、国際通信社に編集部主任として入った。18年5月には読売新聞社主・本野一郎前外相の要請で主筆として入社、翌年のパリ講和会議に全権随員として赴いたが、帰路、社の経営が本野家から離れたことを知り退社、外務省嘱託になる。

 20年4月、対華通信の強化のため新たに東方通信社が結成されると主幹となり、26年5月国際通信社と合併して日本新聞聯合社(後に新聞聯合)が発足すると、理事兼顧問に就任、27(昭和2)年8月にジュネーブで開かれた国際連盟主催の世界新聞専門家会議に日本代表として出席した。

 31年2月、蘇峰が去った後の国民新聞社長になったが、資本主の根津嘉一郎相談役と意見が分かれ11月に退社、32年ジャパンタイムズ社長を1年務め、第一線を退いた。

  戦後は郷里に疎開中、島根新聞(現山陰中央新報)の田部朋之社長に懇請されて46年4月、社長に就任、社の復興、発展に寄与し、53年10月辞任、その後は趣味の野鳥保護運動に取り組んだ。同時に47年参議院議員に当選、51年のサンフランシスコ講和会議には全権委員代理として出席している。1961(昭和36)年7月15日没。

(上智大学名誉教授 春原昭彦)