コラム「日本の新聞人」

新聞製作近代化の先駆者―全国高校野球大会の生みの親 小西作太郎(こにし・さくたろう)

 大正から戦前昭和期にかけて新聞印刷・工務の近代化を進めた新聞人。1892(明治25)年5月25日、京都市に生まれ、1918(大正7)年京大工学部機械工学科を卒業、茂木合名大阪支店に入るが、兵役を終えると大阪朝日新聞社に招かれ21年8月入社した。

 その時、新社屋建設中の大阪毎日新聞社が新しい高速度輪転機を米国から導入しようとしていた。それを知った大阪朝日も新輪転機購入を決定、入社早々、その選定を命ぜられて渡米し、新聞各社を視察の上、アール・ホー社に発注、さらに日本の新聞サイズに適応するよう新たな図面を設計して製作、試運転にまで立ち会い帰国した。こうして朝日は、毎日には9か月後れを取ったが、22年12月、当時としては最も進んだ高速度輪転機の導入に成功した。

 この「朝日」の成功は、新聞製作のあらゆる面に技術が必要になることを痛感させる契機となった。翌23年5月には印刷局が新設され、初代の印刷部長に就任、以後、印刷局長、常務取締役を歴任、朝日印刷部門の総責任者となった。

  昭和に入って戦争が長引くと、用紙難から減ページが相次ぎ、各社とも活字を小さくして記事量を確保しようとした。そこで開発したのが偏平活字で、41(昭和16)年12月から使用を開始したが、その時、これは一社で独走するより各社、歩調をそろえるほうがよいと無料で種字の提供を提案、「朝日式活字」が全国に広がることになった。

特筆すべきは、現在の高校野球全国大会の生みの親とも言うべき功績で、旧制三高野球部主将時代、全国中等野球全国大会の企画を立て、朝日新聞社の後援を得て実現した。これが朝日入社の機縁ともなっている。45年11月役職を辞任、翌年社友となり、1985(昭和60)年2月5日没。

(上智大学名誉教授 春原昭彦)