コラム「日本の新聞人」

地方紙近代化の功労者 平田陽一郎(ひらた・よういちろう)

 戦中、戦後の愛媛県にあって、地方紙の基礎を確立した代表的新聞人。1908(明治41)年11月1日、八幡浜市に生まれ、32(昭和7)年、京都帝大文学部を卒業して京都日日新聞社に入ったが、35年2月、大阪毎日新聞が門司で西部印刷を開始する時、西部総局整理部に招かれ、その西部版の発刊に尽力した後、大阪本社に移り、阪神版の整理を担当した。

 41年、新聞統合で生まれた「愛媛合同新聞(44年愛媛新聞と改題)」では、新聞資本家の対立などで混乱もあり、42年6月、請われて編集局長として入社、44年からは役員として経営にも参与するようになった。

 45年7月26日、戦災で社屋は全焼した。戦後はその再建から始まった。46年6月には37歳で社長に就任するが、いち早く新社屋の建設にかかり、46年10月に落成、編集陣強化のためには「専門学校卒以上の記者採用試験」を定期に実施するなど、復興と社内体制の整備に努め「愛媛新聞」の戦後の興隆に大きな足跡を残した

  放送の分野でも功績は大きい。52年に英国政府の招待で欧州を訪問した際、BBCに着目、電波の時代を予感したと言うが、58年に「ラジオ南海(南海放送)」を設立、以後社長、会長を歴任、地元民放界に貢献した。

  特筆すべきは、日本最初の新聞週間を実施したことで「民主的な新聞周知のためにアメリカでは新聞週間をやっている」と聞いて、47年12月1日の創立記念日を新聞週間にして、新聞展を開催したことである。この催しが成功をおさめたことにより、他社も賛同し、翌年から全国新聞週間に発展する。亡くなるまで新聞・放送両社の相談役を務め、1988(昭和63)年10月10日没。温和な性格、人をそらさない人格から晩年まで「陽さん」が呼び名であった。

(上智大学名誉教授 春原昭彦)