信念の新聞経営者―静岡新聞の発展に貢献 大石光之助(おおいし・こうのすけ)
昭和期に活躍、信念に生きた新聞経営者。1896(明治29)年9月9日、静岡市に生まれ、上京して徳富蘇峰の書生になり、その薫陶を受けながら日本大学に学んだ。1920(大正9)年卒業すると、徳富の「国民新聞」に入社し、9月から22年3月まで新聞調査および経営研修のため欧米に派遣された。
関東大震災後、徳富を助けた「主婦の友」石川武美社長に認められその秘書を務めたが、たまたま静岡民友新聞社から経営の相談を受けた石川が融資を承諾、28(昭和3)年徳富とはかり大石を総支配人として送りこんだ。
当時の「静岡民友」は部数3000部の弱小地方紙にすぎなかった。大石はまず政党色を脱し、「売るために作る新聞」をモットーとし徹底的に読者本位の紙面の編集をはかった。
さらに34年2月には30余の専売店を新設、主要支局には予約電話をもって地元ニュースをカバーするなどして部数を伸ばした。41年12月1日、戦時新聞統合により県下6紙を統合して「静岡新聞」が創立されるや初代社長となり、以後の発展を主導する。
その経営方針は徹底した合理性と能率性、独特の経営理念のもとに社業の進展を図った。戦後、用紙統制が解けて各社猛烈な販売競争に乗り出した時にも独自の販売政策で、専売店を持たず合売に徹し、低価格政策だが店の手数料は増やして扱い部数を伸ばし、全国1、2を競う地方紙に育て上げた。
放送界にも進出、52年に「静岡放送」(58年にはテレビ開局)を設立、社長となり新聞、放送一体化の合理的経営を成し遂げた。61年には米国の日系紙、ハワイ報知社を援助、買収してその経営にあたっていたが、71(昭和46)年2月8日ホノルルで客死した。生涯、徳富に私淑し没後、その遺徳をしのび「蘇峰会」を再興して、その精神高揚に努めた。
(上智大学名誉教授 春原昭彦)