コラム「日本の新聞人」

終戦時、白紙の紙面に決意込める 高杉孝二郎(たかすぎ・こうじろう)

 戦前、戦後の昭和期に活躍した新聞人。1899(明治32)年9月28日、富山市で生まれ、1923(大正12)年東京帝国大学法学部を卒業して東京日日新聞(現毎日新聞)入社、政治部、整理部を経て、37(昭和12)年12月、大阪毎日新聞整理部長、39年12月、東京日日新聞政治部長、整理部長から、42年12月、西部本社の編集局長となり、重役待遇として45年8月15日の終戦を迎えた。

 この時高杉は「戦争を謳歌し、扇動した責任は最大の形式で国民に謝罪しなければならない。本社は解散、新聞は廃刊、それが不可ならば重役、最高幹部は即時退陣する」という進言を辞表に添えて奥村信太郎社長に提出、さらに「どういう新聞を発行すべきか」指示を仰いだが要領を得ない。

 そこで西部本社16日の新聞は、天皇の詔勅、内閣告諭など戦争終結の記事を1面に掲載しただけで、2面は白紙のまま発行された(当時の新聞はペラ1枚)。この頃は通信に故障と不通が相次ぎ、原稿が不足していたこともあるが、「掲載無用と信ずるものは掲載を見合わせています」とのお断り(18日)もある。この状態は20日まで続き、高杉は29日付で退社した。

  なお41年12月8日の太平洋戦争勃発時の毎日新聞は「開戦を予告するようなスク―プ紙面」と言われるが、この時の整理部長も高杉だった。

 戦後は49年12月に千葉新聞の常務・編集局長、同社が56年12月に解散した後は、57年から千葉日報の取締役、編集局長、論説主幹、取締役会長を務め、千葉県の県紙の育成に尽力した。豪放磊落な性らいらく格で正義感、責任感が強く、部下の記者を連れてよく飲み明かし「記事には責任をとれ」と教えたという。あだ名は「御前さま」。1974(昭和49)年11月23日没。

(上智大学名誉教授 春原昭彦)