コラム「日本の新聞人」

戦前の国際記者―リットン報告書をスクープ 楠山義太郎(くすやま・よしたろう)

 戦前、欧米を中心に活躍した国際記者。1897(明治30)年6月28日、和歌山県日高郡由良町に生まれ、早稲田大学政経学部を卒業して1920(大正9)年9月、大阪毎日新聞入社、翌年海外派遣留学生として米国に留学、25年4月帰社した。

 28(昭和3)年外国通信部副部長、翌29年6月ロンドン特派員となり、10月に起こった世界恐慌、翌年1~4月のロンドン海軍軍縮会議、31年に満州事変が起こると国際連盟を取材、リットン調査団の派遣から日本の連盟脱退など、世界の動きを現地で直接、取材に当たった。この時有名なのがリットン報告書のスクープで、調査団長リットン卿に出発前から食い込み、卿がロンドンに帰るや関係者に当たっていち早くその全文を打電、32年10月2日の公表より31時間半も早く、1日午後1時半に毎日新聞は号外を発行した。

 33年帰社し9月神戸支局長となるが、翌34年6月、東京日日新聞(毎日・東京)に移り、外国通信部長になった。かねて外交を論ずるには外電だけに頼っていてはダメだと外勤の必要を痛感していた楠山は、この機会に欧米電報はデスクに任せ、自分が外勤に当たることにした。

 39年には現職のまま移動特派員として欧米を回り、5月27日、米大統領ルーズベルトとの単独会見に成功(同大統領の在職中の単独会見は世界で2人だけ)、欧州に渡ってハリファックス英外相、イーデン陸相、リッベントロップ独外相などと会見、第二次大戦勃発前後の欧州情勢を直接その目で取材、報道して翌40年8月帰国した。

 9月欧米部長になるが、開戦気分の社内では孤立し43年4月、重光葵外相に請われ日本タイムス社長、44年5月には上海タイムス社長を兼ね、敗戦を迎えた。

 戦後は毎日新聞に戻り、取締役英文毎日主筆、東京日日新聞社長などを務め、50年12月相談役に退く。以後、衆議院議員1期(52~53年)、NHK経営委員(59~65年)などを務め、1990(平成2)年1月7日没。

(上智大学名誉教授 春原昭彦)