コラム「日本の新聞人」

神奈川に根を張った昭和の地方新聞人 樋口宅三郎(ひぐち・たくさぶろう)

 昭和期に活躍した神奈川の新聞人。1901(明治34)年10月27日、宮城県東多賀村に生まれ、岩手県釜石鉱山に勤めたが20(大正9)年、叔父を頼って横須賀に赴き「相模中央新聞」に入社、記者生活を始める。

 22年、誘われて大阪の「大正日日新聞」に移るが、経営者の交代があって退社、「横浜日日新聞」から支局開設を請われて23年、横須賀に帰った。だが9月1日、関東大震災が起こり社屋は全焼、その時、飯田三次郎販売支局長が個人で出していた週刊の「軍港よろづ」に横須賀鎮守府から情報をもらって2日、号外を出したことが縁となって日刊の「軍港よろづ新報」を発刊、編集長として紙面の充実を図った。

 だが経営が放漫になったことから、31(昭和6)年3月10日に独立して「横須賀日日新聞」を創刊、市民奉仕を経営方針とし“理想の地方的小新聞”(杉村楚人冠)を目指すことになった。以後、社屋を増設、マリノニ輪転機を設置し30年代後半には、県都横浜に新聞があるものの「最近では新進横須賀日日が活気ある経営を示している」という評価を得るに至った。

 40年代に入り新聞統合が始まると横須賀で1紙残って「神奈川日日新聞」と改題、42年2月に「神奈川県新聞」(横浜貿易新報の後身)と合併、一県一紙の「神奈川新聞」が誕生、その社長に推された。45年5月29日、横浜大空襲で社が全焼したため休刊、持分合同で朝日新聞を代替紙とし、戦後の11月1日再刊にこぎつける。その間、朝日新聞社から種々の協力を得て陣容を整備し翌46年2月、社業一新して会長に退いた。

 68年2月、取締役・相談役となり、ラジオ関東(現ラジオ日本)取締役なども務めるが、執筆活動は続き、46年のコラム“潮音”から没年まで3,300編以上のコラムを紙上に書き続けている。82(昭和57)年4月14日没。

  特記すべきは“日本最初の日刊新聞の発見”に尽くした功績で、創刊日や改題説など異論があったこの問題に決着をつけたのはその執念と言うべきであろう。

(上智大学名誉教授 春原昭彦)